セリーリャスが大きなくしゃみをした。ヒラソルが心配そうに顔を覗くと、セリーリャスは笑って、
「昨日寒かったね。急に。なんだか、風邪引いたかな? 鼻も出るよ。」
 と笑った。
 大勢の庭師の手入れと、大工のお陰で、あれほど作業が停滞していたものがようやく完成にさえ近付いていた。大工も庭師もセリーリャスの姿を見ると、小刻みだが震えながら作業をしている。作業を中断して挨拶すると、作業を見たいからと続きを迫られたからだ。
「あ、そこのトゲで指を怪我するわ。」
 セリーリャスは何事もないようにそう言ったあと、庭師の一人が指にとげを刺し、慌てた拍子に台から転げた。
 誰もが不思議そうにその庭師とセリーリャスを見ていたとき、侍女が近付いてきた。
「セリーリャス様、お客様がお見えですが。」
「お客様?」
 セリーリャスはヒラソルを振り返った。セリーリャスとして意識を戻してこの半月ほど、誰一人としてこなかった屋敷に客が来たのだ。しかも、それは以前のセリーリャスからも珍しいことらしく、ヒラソルも驚いていた。
「あの、どなたですか?」
「それが、聖戦士隊長のカシス侯爵と、エラード伯爵です。」
 ヒラソルが『まぁ』と感嘆の声を上げ、セリーリャスに肯く。
 『聖戦士』確かカルネロが言っていた気がする。セリーリャスもそのうちの一人で、戦っていたとか。
 セリーリャスは二人を案内させるように言うと、二人の青年がやってきた。
 一人は栗色の柔らかい髪をして、その服装はかなり高官であると「素人」目に見て解る格好だった。鼻筋の通った隊長と言うには細身に感じる。彼がカシスのようだ。
 そしてその後から来る紺碧色の髪をした青年がエラードらしい。深い深い黒を帯びた青い瞳を持ち、その色が特徴なのか、その色の服を纏っている。
「ご機嫌いかがですかな? セリーリャス様。」
「わざわざありがとうございます。」
 セリーリャスはカシスの嫌味に似た口調に、丁寧に頭を下げた。その動作にカシスは直ぐエラードと顔を見合わせ、セリーリャスの後ろにいるヒラソルを見た。ヒラソルは侍女らしく俯いているだけだったが、少し誇らしそうな笑みを浮かべている。
「立ち話も何ですから、あそこでお茶に、お茶……。」
「何か思い出されました?」
 ヒラソルの言葉にセリーリャスは首を振り、そして笑いを堪えながら、
「男の人にお茶を勧めるのもどうかしらって思ったの。でもこんだけ日が高いとお茶かな? お酒を飲むには早いよね。」
 セリーリャスは笑って、庭に急遽用意してくれたテーブルの方を指さした。
「どうぞ。」
 セリーリャスが首を傾げて二人を見ていると、ヒラソルが後ろから小さく言う。
「先に行かれませんと、どなたもついていけませんよ。」
「そうなの?」
 セリーリャスは感心しながら歩き出し、ヒラソルが引いてくれた椅子に座った。
「いい、いい庭ですね。」
「そうでしょ。みんなが一生懸命に作り直してくれているから。」
 セリーリャスはコロコロ笑い掌でカップを包んだ。そしてその紅い水を見つめると、小さく息を吹きかける。
 カシスはその様子を黙ってみていた。エラードは最初から口を利く気はないのか、今だなにも話そうとしない。もっとも、カシスがいる以上出しゃばって口を開くことはないのだ。
「以前と、随分変わられましたね。」
 セリーリャスがカシスの方を見て微笑む。
「覚えてないから。今ある感情のまま動いているだけ。だから前の感情と違ってるのかな? 薔薇を切り刻むつもりはないし、この屋敷中を女子校にする気もないの。」
「女子校ですか。」
 カシスが『物は言いようだ』と言わんばかりに乾いた笑いを漏らす。だがセリーリャスから目を移したわけではない。じっと観察をしている。
 あれほど化粧と、香水と宝石で飾って居た身が、すっきりとしている。おまけに、目元など以前のように血走りきつく迫り上がってなど無い。どちらかというとたれ目で、おっとりした感じを受ける。このままで居るなら、きっと、暇を持て余している公爵家の人たちの愛妾候補に選出されるだろう。
「あ、」
 ヒラソルが林檎を剥こうと手を伸ばしたときだった。セリーリャスが笑顔をヒラソルに向ける。
「手、切るからね、気を付けてね。」
 林檎など、セリーリャスが好きだからと今までも何度となく剥いてきたではないか、何を今更。そう思いながら林檎を取り上げ、ナイフを取り上げた瞬間、ヒラソルは手を滑らせナイフを落とし、その瞬間人差し指を切ってしまった。
「ね、言ったでしょ。」
 そう言ったセリーリャスに、ヒラソルは指をくわえ、直ぐ布で止血しながら、
「なぜ解ったのです?」
 と聞いた。
 −なんで解ったの? 凄いじゃん−そんな言葉、嘘のくせに。
 セリーリャスの頭をよぎる憎しみに似た感情。セリーリャスは直ぐに俯く。
「如何しました?」
「大丈夫。なんで、解ったのかな? って思っていたけど、さっぱり、解らなくって。」
 そう言いながらセリーリャスはカシスに目を向ける。カシスは至って普通に、そう、ヒラソルの方を心配している。しかしエラードは違っていた。疑っているような目。セリーリャスは笑顔でヒラソルを見て、
「あたしが剥こうか?」
「とんでもありません。林檎がジャガイモになります。」
「あ、失礼だな、それ。」
 などとお茶を濁した。エラードは何も言わず、視線も庭の方に向けていたし、カシスはヒラソルに声をかけたあと、セリーリャスと元の話に戻った。
「カルネロが辞退を申し出てきたのですが、どこか悪いのですか?」
「辞退ですか? ごめんなさい。さっきも言ったとおり、記憶がないから、私が何をしていたのか、何をすべきだったのかさっぱりで。ただね、言えるのは乗馬は出来ないの。」
「怖くなりましたか?」
「と言うよりも……、したこと無いから。」
 セリーリャスの言葉を「記憶喪失だから」と取っただろう。でも当のセリーリャスは、乗馬の基本などまったく知らないのだ。体が覚えていることもない。一度も馬でさえ見たことがない。そう言う記憶はあるのだ。
 セリーリャスが小さく笑った。
「如何しました?」
 訊いてきたカシスに首を傾げて微笑みながらセリーリャスは言った。
「私、本当にセリーリャスなの?」
 カシスは黙った。ヒラソルも切なそうな顔をして俯いている。
「いつも思うの。みんなが記憶している私が、本当に私だったのかって。時々ね、私変なことを言うらしいの。まったく知らない言葉よ。でも私は知っているの。解らないでしょ? 言っていることが。私も解らないもの。記憶喪失って、厄介よね。ほんと。」
 セリーリャスの笑いは悲しげで、切なげで、これが以前に戻るだろうか疑問が出てくる。このままのような、否、いずれ記憶喪失というものは直る。直らず残りの一生を過ごすのは、不幸だ。
 しかし、彼女の場合、その不幸が幸せではないか。周りの者も。
「辞退の方向に話を進めておきましょう。あなたはいち女性になられた。女性を危ない場所に連れて行くほど私たちも弱くはない。」
「ごめんなさい。でもそうしてあなた達に迷惑を掛けるのではないですか?」
 カシスはふいに「あなたが居る方が迷惑を掛けます」と言いかけて止めた。止まった言葉はセリーリャスの黒真珠を見入ったためだ。
「大丈夫ですよ。」
 それがそれから逃れる言葉だった。
 カシスとエラードは立ち上がり、帰ろうとしたときだった。
 風が芝を走り、木が揺れる。冬の気配を感じるそれに、セリーリャスが思わず口を開く。
「行っちゃだめ、」
 −なんで、解ったのよ。−
 −なんか、恐いよね−ひそひそと話す声。横目で見られている不快感。押し潰させそうな孤独感。
 セリーリャスの言葉にカシスとエラードが振り返ったが、セリーリャスはそれ以上の言葉をつむげずに黙って俯いている。
 私の所為で、彼女は怪我をした。彼女の怪我は私の所為。だから、もう言っちゃいけない。
 セリーリャスは、様子のおかしさに手を差し出してくれたヒラソルに捕まっていた。蒼白した顔色、息苦しそうな呼吸。
「なぜ行かれないのです? 帰らないで。と言うのなら話は別ですが。」
 カシスの冗談にセリーリャスは笑う気など無い。カシスは冗談も相手にされず、苦笑いをして歩を進めようとする。
「だめ、……、だめなんだけど……。」
 頭でざわめくひそひそ声の重圧。耳鳴りがする。そのために目眩さえする。
 カシスは首を傾げて歩き出そうとするのをエラードが止める。
「なんだ。」
「様子が、おかしい。」
 エラードの声がしてセリーリャスが二人に顔を上げる。その振り返っている二人のちょうど真後ろに嫌な気配がする。
 口を突けないその予感。
 エラードとカシスが妙な気配を察したらしく振り返る。それはちょうどセリーリャスがじっと見ている辺りだ。
「なぁんだ、聖戦士の一人が弱ってるって聞いたから来たのに、余計な者まで居るじゃない。」
 それは妙な人間だった。全身が青白く、まるで霊気がないような冷たさが漂う。そのくせ口は血を称えて真っ赤に色付いている。しかし、モザイクのかかった画像のように薄い。
「エラード!」
 カシスの怒声の前にエラードは剣を抜きあれを刃が捕らえたが、所詮実体化できていなかったため、映像が切れるように消えただけだった。
 セリーリャスが大きく息を吐いた。ヒラソルは腰が抜けそうになりながら、記憶を無くしたセリーリャスを守ろうと必死に踏ん張っていた。
 周りの者達はおののき、目を見開いて腰を抜かしている。
「捕らえたか?」
「いいえ、逃げられました。」
 エラードは剣を鞘に滑り要れセリーリャスを振り返った。
 セリーリャスは大きく息をつき、顔色は戻り、震えも治まっている。

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Juvenile Stakes

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