宇宙のせみ〜飛行、鳥、銀河、長距離 僕と、彼女は、僕の部屋にいた。僕の部屋の、空がずっと高くまで見られる窓の側に腰を下ろし、真夏の暑さを忘れられるほどの冷房の中、青い空と白い雲を見上げていた。 ときどき、彼女がすっと乾いた首筋の髪を後ろに払う。そのたびに僕はそれを黙って見る。そんなゆったりした、夏に不釣合いな時間が過ぎ、ふと彼女が口を開いた。 「夏だぁ。」 そんなこと百も承知だったが、なぜだか「そういえば」という気がする。 彼女といると、妙な気分が生まれる。彼女は僕が知っているどんな女の子よりも、変わっている。たかがだお菓子に群がるありの大群を見ても、「蟻だ」と腰さえ落として見つめる。変わった子だ。 その彼女と僕は付き合ってなど無い。ただ、サークルが一緒で、午前中のミーティングを済ませ、金の無い僕はそのまま解散した帰り道、彼女はいつもと同じように立ち止まり、今日は木を見上げていた。 話しかけることなどなかったが、僕もつられるようにして見上げると、ジーっと鳴き始める木。 「せみ?」 「そうだよ。ほら、あそこ。解る?」 小さな小さなせみが鳴いているらしい。彼女は静かに指をさし、僕にせみを見せてくれた。 「いるんだ。こんなとこでも。」 「いるよ。どこだって、人間が入り込めない場所は無いと思っていても、入り込めない場所は山ほどあるのに比べたら、虫や、動物はその場所にだっていける。すごいんだよ、虫たちのほうが。」 彼女はそう言って首を傾げて微笑んだ。目が大きいだけでかわいいというほどでもない。髪の毛は暑いからとゴムで無造作に束ねているだけで、ほつれた髪はぴたっと首筋に張り付いている。 「洋子達と行かなかったの?」 洋子とは、サークルの部長で、僕がいけなかったカラオケパーティーの幹事だ。 「金がね。川瀬は?」 「楽しくないもの。煩いし、下手だし。」 「下手?」 「あたしは上手よ。洋子とかね、鈴森君も下手だなぁ。」 二人が聞いたら激怒するぞ。あれでも構内カラオケで優勝した二人だぞ。僕がそういう目で見下ろしていたからか、それとも、何も言わないからか川瀬 愛美は僕の顔を覗き込むように近づいてきた。 「起きてる? 基君てさぁ。たまに起きてるのか寝てるのか解らないよね。無口だし。そんなんだから、洋子はいいように男友達増やすんだよ。」 川瀬はそう言ってくるっと振り返り歩きだした。 「有名なのか?」 川瀬が立ち止まって首だけ振り返った。 「何?」 「洋子が、浮気してるって。」 「……、浮気? あんたたち結婚してたの?」 「いや、」 「じゃぁ、拘束度皆無じゃない。それでも恋人だ! っていうなら、あなたが洋子に言うべきでしょ? あたしや、うわさしている人をとやかく言うべきじゃないわ。後は、相手ね。その言い草だと、相手を知ってるんでしょ? 寝てちゃ、だめよ。」 川瀬のほつれた髪に汗がそって流れていくのが見えた。ただそれだけなのに、僕は川瀬を家に誘った。慰めて欲しいとかそういうのじゃない。ただ、なんとなく、甘い蜜を吸う気も無い。ただ、なんとなく、居て欲しかった。 川瀬は黙って部屋に来て、先ほどから動かないこの場所に座っている。 冷房はフルに動かしていても、窓から入る日差しのおかげでちょうどよかった。 「虫ってね、宇宙にも居るのよ。知ってた?」 「は?」 「知らないの?」 川瀬は誇らしげに笑い、そして空を指差していった。 「人工衛星が最初に大気圏を突破したのは何年?」 「19……70年?」 「1957年。惜しいねぇ。」 「それが?」 「地球上には、どんなに綺麗に見えても、虫が居るでしょ?」 「ばい菌のこと?」 「そう。それが宇宙に飛び出て、そのままそこに居座り、そして宇宙人となる。」 「ならねぇよ。」 「見た?」 「いや、でも無理だろ? 空気ねぇし。」 「地球だって昔はなかったよ。」 川瀬の言葉に僕は黙ると、川瀬は額にしわを寄せ不機嫌そうに言った。 「寝てる?」 「起きてる。」 「まったく。木村 基! 君に無言権の剥奪を要請する。」 「は?」 「黙るなってこと。何でもいいからしゃべれってこと。」 「話すことねえぇ。」 川瀬が黙った。僕が顔をしかめると、川瀬はあごを上げて僕を見た。 「ほら、黙られると嫌な感じでしょ?」 僕が口をゆがめると、川瀬はひざを抱いて僕を上目遣いに見た。 「人は昔言葉がなかった。なくても意思の疎通はできた。言葉を生み出してから、意思の疎通は途絶え、文字を生み出してからは記憶さえ失い始めている。だからこそ言葉は大事なんだよ。話さなくてもいいなんて、それは遠い昔のこと。伝えたい言葉は、伝えたほうがいい。伝わらない言葉をずっと溜め込んで、心の遠距離ぃなんて、馬鹿らしいだけよ。」 彼女はそう言って後ろに手をつき、足を放り投げ空を見上げた。彼女のオレンジのワンピースに鳥の影が落ちる。仲良く二羽絡まるようにしてその影は過ぎていき、僕は川瀬を見た。 川瀬は鼻歌を歌い、つま先でリズムを刻んでいる。 「なぁ、何で家に上がった?」 「上がって行けって言ったじゃない。」 言ったけども、すんなりついてくるとは……。僕が顔をしかめると、川瀬は顔を覗くように首を傾げ指を一本立てた。 「剥奪されてるのよ。文句、言いなさい。」 川瀬の言葉は強制的だったが、口調は姉のようだ。 姉。 僕には姉さんはいない。いるのは弟だけで、やつは実家で高校生をしている。でも、僕は川瀬を姉のようだとマジで思った。 川瀬はため息をつき、髪を手で束ねそのまま払い落とすと髪は規則どおりに落下し肩を滑った。 「お前、いくつだ?」 「同じ年。何? 老けて見るって? 悪かったわねぇ。」 「そこまで言ってない。」 「そう? ああ、もう涼んだし、帰る。洋子によろしくね。無理やり押しかけてきた馬鹿女が居たって。少しは帰ってくると思うよ。」 川瀬はそう言って笑いながら出て行った。僕は見送ろうともしなかった。帰っていく川瀬を見送り、寂しいと感じたくなかったからだ。玄関に背中を向け、片手を上げた姿を川瀬は見ただろうか? とにかく、腕を下ろすと扉が閉まった音がした。 翌日。洋子が泊まりに来た。洋子はなんでも一人でする。会話も、食事など、僕の分がなくてもお構い無しだ。勝手にソファーをぶんどり、どこで知ったかビールをくいっと空け、コンビニの焼き鳥を食べ始める。今日も同じだ。 「ほら。」 僕はそんな洋子が買ってきたサラダを皿に盛り、弁当を温め机に置く。 「まったく基ってば几帳面。きっといい旦那様になれるわよ。」 洋子はそう言って、ビールを飲む。何が気になったのか、洋子は飲むのを急にやめた。そのため戻りの遅かったビールが口から飛び出て頬を伝った。 「ほら、ティッシュ。」 僕が一枚ティッシュを差し出したが、洋子はお構い無しに床に手を伸ばした。 「何?」 「何が?」 「これよ、これ。女の髪の毛よ。」 長い黒い髪。咄嗟に川瀬を思い出す。 「えっと、それは、その、あの、無理やり押し切られてさぁ。」 「嘘! 基。何で? 何で? あたしの彼でしょ? 冗談でしょ! 何考えてんのよ! ちょっと、あんた頭おかしいんじゃないの? あたしがいるのに、何でほかの女あげるのよ! 聞いてんの!」 洋子のヒステリーな声に僕は度肝を抜かれた。最初の念を押し気味に「彼」を強調していたまではよかったが、徐々になんだか冷静になってきた。 「信じられない! それって浮気よ。しかも、家に連れ込んだなんて。もうサイテー!」 僕は思いっきり机を叩いた。洋子の声はぴたりと止まり、あまりのことに驚いたらしい。 「いい加減にしろよ。自分のことを棚にあげて、お前はどうだよ、自分の家じゃぁ汚れるからって、ここに男連れ込んだじゃないか。しかも、その彼とは何にも無いのよ。お前の方が最低だろうが!」 「も、基?」 俺は馬鹿な上に甘い。洋子に嫌われたくないばかりに、機嫌をとって、浮気を黙認していた。少なくても洋子は三人と浮気している。彼らは洋子の素行を知っているのだろうか? 今までなら、何てことなかったことが、今日は我慢できなかった。 「嫌なら出てけよ。でも誰も何も言わないと思うぞ。お前が浮気して三人と付き合って、そいつら全員に振られたとわかったら、そっちのほうがお笑い種だ。」 洋子は赤い顔をしていたが、泣きそうな顔に変わる。 「ひどい。」 「どっちがだよ、今まで散々コケにして、それが今日はじめて言われてそれか? ふざけんな! さっさと出てけ! それとこれはありがたくいただく。今まで散々使わされた分のお返しとして。誕生日も、クリスマスも身を粉にバイトさせた挙句が、あれ好きじゃないから、何とか君にあげたなど、ひどいって言うのはそういうこというんだよ、出てけ! 尻軽!」 洋子は部屋から追い出されるように出てきた。その廊下には愛美が立っていた。 「ちょっと、何よ! どういうことよ!」 愛美はゆっくりと洋子のほうを見る。 「あたしは、今日ご馳走食べに行くっているのを断ってきたって言うのに!」 「別れたかったんでしょ? 別れさせてあげてあげたのよ。」 「いつ別れたいって?」 洋子が愛美に近づくと、愛美の側に洋子の二人の彼が立っていた。 「何よ。」 「彼ら、あなたがここに入っていくのを見てたんだって。」 洋子は二人に責められ、走って逃げていく。 「どういう?」 愛美が振り返ると騒動で出てきた基が立っていた。愛美は笑って帰っていく。 「で?」 何かの実験室らしい。多種多様な薬品が置いてある部屋。それらの匂いが立ち込め、うっぷしそうな部屋。そこに白衣を着た青年と愛美がいた。愛美は椅子に座り空を見上げ、彼は試験管を振っている。 「話したよ、洋子が学校で大声を張り上げて三人と付き合ってて、どれもこれもうだつがあがらないし、もう別れたいって。」 「それで、君のことは?」 「ああ、聞かれたよ。」 「答えは?」 「洋子に彼を取られた子から、依頼された別れさせ屋。」 白衣の彼は愛美を見た。愛美は相変わらず窓を見上げている。 飛行機が白煙を吐きながら飛びすぎ、彼は実験へと目を戻す。 「君は、ひどい人だ。」 基の声。繰り返されるあの場面。 愛美が返事をした後、しばらくして基は静かにそう言って戸を閉めた。 実験室に夕闇が迫り、愛美は一人でいた。 「ひどい? どっちが?」 愛美は立ち上がると、壁に向かって歩く。 「ずっと好きだったのに。あんなひどい女のことなんか、忘れちゃえばいいのに。なぜ?」 「好きだから。僕を怒らせて、反省してくれればいいんだよ。もう二度としなければ。あれじゃぁ、僕の元には帰ってこないじゃないか!」 愛美は涙をこぼし、壁に吸い込まれるように倒れた。 「やれやれ。今回は失敗したかな?」 白衣の青年は固まった愛美の肩に触れた。 「所詮君は人形だ。君がいくら彼を好きになろうと、いくらあの女が悪い女だからと警告しようとも、彼は彼女を忘れることはできないだろう。いや、逆に、君という邪魔が入ったおかげで、彼の心はさらに彼女へと向いてしまったようだ。残念ながら、君への投資は無駄だったようだ。」 白衣の青年は黒い服の女に変わった。そして彼女が振り返った正面に木村 基が立っていた。 「あの、川瀬 愛美は?」 「誰? そんな学生いないわよ。それに、もうここはしめるわ。」 黒い髪をなびかせ基の側を彼女が通り過ぎる。基は彼女に頷いて顔を上げる。そこにあるのは半身人体模型だ。いつもぞっとするその微妙なリアルのある肉体が、急に懐かしく感じられる。 「君、お姉さんがいた?」 基は身体を跳ねるようにして振り返る。 「いえ、」 「そう? でも家に帰って聞いてみたら? 流産しなかったかって。流産は悪いことじゃないからね。」 「あの、なぜ?」 「霊能力者。だったりして。」 彼女はくすくすと笑い、基を廊下に出すと鍵をかけ振り返る。そして微笑んでそのまま角を曲がって消えた。 「基!」 洋子の声だった。振り返れば急に様子が変わった洋子がいた。 「えらくやせたね。」 「もう、うんざり。基は、私を見捨てないよね?」 「見捨てる? なぜ?」 「よかった。」 人体模型の目から涙がこぼれる。 「君が見捨てたんじゃないか。拾ってもすぐに同じことだよ。もう、終わりさ。」 僕はあれから母さんに電話した。母さんは流産したことを話した。興味が無いと今まで言わなかっただけだそうだが、まるで触れてはいけない秘密のようだったと笑っていた。姉になるか、兄になるかわからないそうだが、絶対に姉だろう。 僕は先祖の墓に行った。墓の隅にあった水子の墓がそうだと気づいた。今まで知らずにごめん。 せみが煩くて、僕は空を見上げた。そしてふと 「宇宙にも、せみっているのかな?」 とこぼしてみた。 「変な人。」 僕は振り返った。愛美だ! 「君、」 「あと少しだけ。」 「少し? 何が?」 「親切な人の好意が。あたしあなたが好き。でも、今はかなわない。多分、これからのあなたの一生の中でも。でも、いつか会えるわ。銀河の中でも、それこそ、宇宙に居るせみになっても。」 「どういう? ……、姉さん?」 「さぁ。どうなんだろう。あの人は、私を人形だと言ってた。そうだと思う。でも、あたしは、あなたが好き。ありがとう。」 愛美はまるで無数の蝶のようにひらめきそのまま空に舞い上がっていった。跡形など残さず、綺麗さっぱり飛んでいった。 結局彼女は何者なのか、僕はわからない。 でもこの夏をきっかけに、僕と洋子の関係は終わり、僕は卒業に向けて勉強を始めた。来年の夏が来る頃、またせみが鳴き出すと、僕は思い出すだろう。宇宙のせみと、川瀬 愛美という不思議な女のこのことを……。 「やれやれ、意外な結末。やはり、人形というものには、人の信じられない念が含まれるのかしらねぇ? 」 黒い服の女は静かに墓場から歩き去っていく。 せみ時雨の夏の昼が、お世辞にもすごしやすくはなかったが、彼女は汗すらかいていないようだった。 |
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