ギーゼルベルトが徴兵されて五年が過ぎた。ギルバート先生こと、レディー・アンの父親はそれから半年後に亡くなった。それまで親子だと言うことを公表せずにいたが、葬儀では、レディー・アンは人目をはばからずに泣いた。 そしてそれから数ヶ月後、ノーマが強制収容所で死亡したと連絡があった。イツァの留学生のほとんども同じ収容所だという。 戦局はイツァ軍優位で進められていたが、大人たちの話しでは折り返し地点らしく、戦局が逆に向いているという。 レディー・アンは髪の毛を束ね、鏡の前で首や身体を捻ってみた。 レディー・アンも十九歳になっていた。そしてこのビクトリエンス校の合唱部の教師として第一歩を踏み出していたのだ。 「最近の子は。」 そう言ってレディー・アンの机の隣りに座ってきたのは、数学教師のミス・モニカだった。 職員室のレディー・アンの机はギルバート先生が使った居たもので、今だに彼とレディー・アンは歳の離れた恋人だという噂がある。 「どうかなさいまして?」 「ええ、アン・トレイシーバー、声楽2のネリー・マンソーをご存じ? ご存じでしょうね? 同じ声楽なのだから、」 「彼女が何か?」 ミス・モニカはオールドミスがよくするように肩を震わせ、甲高く「何かですって!」と叫んでから、深呼吸をしてレディー・アンに向き合った。 「あの子、私の授業に出ませんでしたの。そればかりか、注意した私に「オールドミス!」と罵って立ち去ったのですわ。」 「まぁ!」 と言いながら、レディー・アンはミス・モニカの様子がおかしくて仕方がなかった。 レディー・アンは放課後ネリーを教室に残した。金髪で、青い目の人形のような綺麗な顔立ちをしている。 「ミス・モニカの指示?」 ネリーは顎を上げてレディー・アンに聞いた。レディー・アンはその格好が酷くおかしくて失笑してから、「ごめんなさい。」と言いながらまた暫く笑い続けた。 「もう、あまり笑わさないで。このスカートきついんだから。で、えっと、あなたに聞きたいことがあるのだけど。」 「なぜ、ミスモニカにオールド・ミスって言ったか?」 「いいえ。」 「じゃぁ、階段の手すりを滑り降りるとか?」 「あれは気持ちがいいわよね。でもそれでもないわ。」 「あとは、」 「将来何にもなりたくないの?」 レディー・アンとネリーは校庭のベンチに座っていた。 「アン・トレイシーバーはどう思う? こんな世の中でなりたいと思う職業があると思う?」 「でもないと否定してかかるのはおかしいわ。あなたには声があるのだし。」 「だとしても、どこでも歌えるわけじゃないわ。最後にはみんな路地裏の小さなクラブ歌手。それもストリップ劇場のね。」 「それも一つの道よ。そこから這い出て大物になった人は沢山居るわ。ようは、それに満足するか、しないか。ネリーはそこで満足なら、クラブ歌手と書いてちょうだい。いやなら、ちゃんと書いて、まだ未定なら未定。考え中なら考え中。」 「いいじゃない、書かなくても。」 「書いて。あなたの字で、将来のことを。」 レディー・アンは頷くと、ネリーは紙を受け取り、ペンを走らせた。 「歌を、歌いたい? そう、いい夢だわ。」 レディー・アンはそう言うと紙を受け取り立ち上がり、校舎にはいる。 「それがどんな意味を成すのよ。」 「これは誓約書よ。あなたはこれを書いたことを一生覚えているわ。そしてその道から外れるといつも思うの、誓約書と違うって。だから、どうしてもこの通りの道を進は。それが誓約の意味。」 「卑怯だわ!」 「言ったはずよ。未定でも構わないって。あなたは歌いたいという気持ちを持っている。ただ、あなたのお父様は軍人で、いつ帰ってくるか知れない不安から、歌を歌わないで居る。でもよく考えてご覧なさいな。あなたがこの学校に来ることを誰が一番喜んだか。再会したとき、あなたが歌を止めていたら、どう思うかしら? 歌って素晴らしいでしょ?」 レディー・アンはそう言うと校舎に消えた。 「あとは、彼女の問題だわ。」 レディー・アンは職員室へと歩いていった。 ネリーに面会が来たのは、それから一週間後だった。 ネリーの、ミス・モニカに対するオールド・ミス攻撃は減ったものの、ネリーとミス・モニカは毎日のように衝突していた。そしてそのつど、レディー・アンが仲裁に呼ばれた。 「ネリーも、ミス・モニカも私にしてみれば両方とも同じですわ。」 レディー・アンに言葉に二人同時に同じ言葉を発する。それが周りの笑いを誘うのだ。 「アン・トレイシーバー?」 ミス・モニカが、机で資料作成をしているレディー・アンに声をかけた。 「なんでしょう。」 「少しいいかしら?」 「ええ、どうぞ。」 ミス・モニカのいつもとは違う様子にレディー・アンは首を傾げたまま見つめていると、ミス・モニカが手紙を差し出した。 「はい?」 「同窓会があるの。」 「まぁ。素敵!」 「ええ、でも、私、こんなんだし。どうしようかしらって。」 「確かに、黒い服。三角の眼鏡、チョークだこの出来た指。どうする気です?」 「だから、あなたに相談しているの。あのネリーを手懐けたんですもの。何かいい方法があるかも。と。」 「手懐けては。でも、そう、服を替えましょ。それから髪型も。」 「ああ、だめ。生徒にばれるわ。生徒にばれないように出掛けたいの。」 レディー・アンは腕組みをして考え、頷いた。 「少し暑いかも知れないけども。」 同窓会当日。レディー・アンはミス・モニカの部屋を訪ねた。 「この服の上に、いつもの黒を着るの。髪型は出来るだけシンプルでいて、変わりなく。」 「まぁ! 思いつかなかったわ。」 ミス・モニカはレディー・アンが用意したドレスを見て鏡の前で一巡したあと、いつもの黒服を着た。 レディー・アンは玄関まで見送りに出て、そしてミス・モニカは颯爽と出て行った。 「アン・トレイシーバー?」 レディー・アンが階段の上を見ると、ネリーが立っていた。 「どうかしたの? あなた、今日は面会人が来る日じゃなかった?」 「そうなんだけど。全然なの。」 「誰? お父様?」 「いいえ、兄よ。先生よりも三つほど年上の少尉なの。」 「そう。少尉。」 「でも遅いの。」 「じゃぁ、ここで二人で待っていましょう。」 ネリーは頷き、レディー・アンとネリーは階段に腰掛けて夜の六時までまった。門限は六時。そして面会時間も同じなのだ。 「きっとお忙しいのよ。少尉なんでしょ?」 「でも、来るって。必ず来るって。電話でもしてくればいいでしょ?」 レディー・アンは俯いたネリーを抱き寄せた。その時だった。玄関の戸にはめ込んだガラス越しに、に影が映ると、激しく戸を叩き付けた。 「来たのよ。」 レディー・アンが慌てて鍵を開けると、確かに見知らぬ軍人が立っていた。そして彼は片手にミス・モニカを抱き支えていた。 「ミス・モニカ!」 「お兄さま!」 ミス・モニカはそのまま倒れるようにしてレディー・アンに抱きついた。 レディー・アンはミス・モニカの枕元に座っていた。その後ろにネリーと、彼女の兄であるチェスター少尉が立っていた。 「どうしたんです?」 「ドーラの店で倒れていたんだ。ネリーがよく話していた人そっくりだから声を掛けて連れてきたんだが。」 レディー・アンは頷いてミス・モニカの額をさすった。 「アン・トレイシーバー。あなたは素敵だわ。あなたの言うとおりにしたら、私、トニーから、あ、昔少しの間だけ仲良かった同級生よ。彼に誘われてお食事に行ったの。ここまで送ってもらったけど、気分がいいから、街で飲み直そうとしたら、彼が居たの。でもね、結婚してたの。トニーは「オールド・ミスになって、色も全くなかったから少しおだてたらいい気になってた」なんて、奥さんと、嗚呼!アン・トレイシーバー。なんて人なんでしょう。私はもう……。」 「ネリー、ミス・シューマンを呼んできて!」 ネリーは走って出て行く。レディー・アンはベットに座りミス・モニカを抱き締める。 「酷い人ね。その人ってどんな人だったの?」 「昔はすごく格好良かったわ。背が高くって、スポーツが得意で、学校中が彼に夢中だったわ。その彼が誘ってくれたのよ。同窓会が終わったあと。あなただって付いていくでしょ?」 「え? ええそうね。」 「私、なんて愚かなのかしら。だから、男の人は嫌いなのよ。」 レディー・アンはミス・モニカをしっかりと抱き締めた。 ミス・シューマンが安定剤を打ってミス・モニカは眠りにつくと、ネリーとチェスター少尉と、レディー・アンは食堂に向かった。 「ありがとうございます。今日はどちらにお泊まりで?」 「なぜ?」 「まさか、この寮に泊まる気ですか?」 「あ、ああそのことね、この先に軍人専門の宿がある。そこにとってる。」 「そうですか。では、明日の九時においで下さい。」 「あ、ああ、そうだね。じゃぁおやすみネリー。」 「お休みなさい。」 チェスター少尉は校内から出て行った。 「ネリー。」 「解ってます。今日のことは内緒でしょ。あたし驚いちゃった。」 「ミス・モニカも女性です。傷つくんですよ。」 「ええ、そのようね。でも、そのトニーって男腹が立つわ。」 「そうね。でも、どうしようもないわ。」 翌朝、ネリーはそっと学校を抜け出していた。どうしてもトニーに一言言いたかったのだ。 ネリーが街を歩いていると、レディー・アンが道路を渡っている姿が見えた。 「ネリー?」 ネリーは肩を掴まれ振り返ると、チェスター少尉が立っていた。 「お兄さま。」 「何をしてるんだい?」 「アン・トレイシーバーが。」 「昨日の先生?」 二人はレディー・アンが入っていった食堂の外から中を覗いた。食堂と入っても立食の軽食屋(今で言う、ファーストフード店の原型のような場所)で、ガラスはなく(夜には鎧戸を立てる)開け放たれているので中の様子は丸見えだった。 「トニーさん?」 「あんた誰だい?」 確かに中年にしては格好が良く、背も高くて、口髭がよく似合う。 「それが、その言いにくくって。使いの者なんですが。」 「使い? あのね、子供の使いじゃないんだ。用件をいいな、用件を。」 「でも、ここで言うのは。」 「あんたね、大人だろ? 十分。」 「しかし、後ろでお話しした方が。」 「いいから、何だい?」 「そうですか? でも言っておきますが、話せと言ったのは、トニーさんですからね。」 「解ってる。さっさと言ってくれないか。客がつかえている。」 レディー・アンはゆっくりと振り返り、申し訳なさそうに首をすくめてから、トニーの方を見て、少し声を上げていった。 「ご注文されていた特別の鬘 レディー・アンの言葉を遮るようにトニーがレディー・アンの腕を掴んだが、その後ろから、トニーの奥さんが襟首を掴んだ。 「だから、奥でって言ったのに。私はこの先のビクトリエンス校の教師ですが、今度の発表会で鬘をお借りしようと思って鬘屋に、子供達の洗濯物を頼みに言っていたら、忙しくって言いに行く暇がないと言付けられたんですよ。」 「そ、そう言うのは裏に。」 「言いましたでしょ、私は教師です。そう言う道理や、そう言う場所を知りませんわ。それに私のようなものが裏から入れば、更に怪しいでしょ? だから、裏にって言ったのに。なんだか、私は居ない方がよいようなので帰りますわ。ちゃんとお伝えしましたから。」 レディー・アンはそう言ってスカートをちょっと抓むとお辞儀をして出て行った。 「アン・トレイシーバー。」 「ネリー!」 「凄いわ、先生!」 ネリーは職員室のレディー・アンの前に座っていた。そしてその隣にはチェスター少尉も腰を下ろしていた。 「なぜ町に? ちゃんと許可が居るはずですよ。」 「でも先生だって。」 「言ったの聞いていたわね、鬘屋には今度の発表会で着ける鬘の注文をしに。洗濯屋へはあなた達の制服の洗濯を頼みに行っていたのです。勿論校長先生もご存じです。」 ネリーは膨れたままで反省文をレポート三枚に書くように命じられて職員室を出ていった。 「すみません。せっかくの休暇、ネリーと過ごしたかったでしょうに。」 「いいえ、あなたに逢えましたから。」 レディー・アンは首を傾げた。 「アン・トレイシーバー。少し庭でも散歩をしませんか?」 「ええ、私でお相手になるのなら。」 二人は庭に出て、青々しい芝の上を歩いた。 「さっきは傑作だった。」 「何がです?」 「昨日のトニーだ。」 「あなたまで。」 「でも本当はそうなんでしょ?」 「ネリーにも言いましたわ。しつこいのは嫌われますわよ。」 「失礼。」 レディー・アンはくすっと笑って少尉を見上げた。 ネリーと同じ黄色の髪、優しそうな青い澄んだ目。レディー・アンは微笑んで歩き出した。 「で、今度の発表会とやらではなにをするんですか?」 「赤ずきんなんてどうかしら?」 レディー・アンがそう言うと、チェスター少尉は吹き出し、笑い出した。それにレディー・アンもくすくすと笑い合った。 |
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