1 It's an ill wind that blows nobody good
 長い黒髪に、黒い神官服を着た一人の男が、部屋で一人本を読み耽っていた。かれこれ半日は過ぎただろうか、暑かった日差しが緩さを与え始め、そのおかげで出来たような入道雲が、雷鳴を鳴らしながら空覆って、見る見るうちに部屋は薄暗くなってきて、彼は顔を上げた。
 もうこんな時間か? とでも言いたげに時計を見る。まだ夕食には時間があるし、帰るにしても、まだ役職の終業を迎えても居なかった。
 彼は本に栞を挟み込み、その本を大事そうに畳むと、それを本棚に戻した。その時だった。ひときわ大きな雷鳴が鳴って、一瞬のうちに空から大量の雨が降り出したのは。
 そしてその音の凄さに廊下で、すぐ扉の前で女の悲鳴が上がった。
「セイラ?」
 彼は優しくそこに居るだろう彼の人の名前を呼んで扉を開けた。
 セイラと呼ばれた、先程雷に驚いて廊下に座り込んでいた彼女は、舌を出して、顔を出した彼に顔を上げる。
「迎えに来ましたの。そしたら、急な雨。驚きました。にい様? まだ帰られないの?」 彼は優しく微笑み、傘を二本抱いている妹を部屋に招き入れる。碧髪の緩やかなカーブを描いた髪に、綺麗な琥珀色の目。その目でセイラは部屋を見る。
「相変わらずカビ臭い本ばかりの部屋だこと。」

 セイラの口の悪さは今に始まったことではない。彼は小さく笑い、机の上を片づけ始めた。その間セイラは部屋を一巡し、めぼしい本を見つけられず、接待用の椅子に座る。
「仕事は済んだのですか?」
 彼の言葉にセイラは胸を張ってほころんで見せた。
「ええ。公爵様の奥様の髪飾りを渡してきたところよ。公爵様は相変わらずお綺麗で、いつも言い値をくださるから好き。」
 セイラはそう言って公爵夫人からもらった駄賃を見せる。
 いくら兄が神官職に居ようとも、その妹までもが重要な職に就けるはずもない。ましてや、学業の苦手なセイラに、政治や神官の勉強など無用の長物だ。そして、彼の家は代々、装飾屋を営んできた家計なのだ。
 ただ、彼が類い希な才能を持っているがために、特別に彼は神官職を仰せつかっているのだ。
「五時の鐘だ。」
 彼の言葉通り、激しい夕立がす来てすぐ、五時の終業の鐘が鳴り響き、その途端、夜勤務め以外は街に、酒場に、家にと向かい始めるにぎやかな声がし始める。
「いいかい?」
 戸を叩いて、にこやかに顔を出したのは、騎士団長であり、兄の古くからの親友である、ロットバルト騎士だ。彼が口添えをしてくれたおかげで、兄は神官になれたと言って過言ではない。気風のいい涼しい人で、柔らかい茶色の癖毛が、今日は少し湿っている。

「雨に降られてしまったんだ。」そう言って軽く肩の辺りを払い、恐縮しているセイラを見つける。「やぁ、お迎えだね。」
 セイラは頷く。とてもまともに口を利ける人ではない。騎士団長でありながら、温厚で優しい彼は、この地の英雄であり、天帝の次ぐらいに人気のある役人なのだ。
「妹君が来ているなら、明日にしようか。」
 ロットバルトが部屋を出かける。
「いえ、私、これで帰ってもいいんです。」
 セイラの必死の引き留めに、ロットバルトはほくそ笑んで兄を見た。兄は真っ赤になって「どうぞ、兄と仲良くしてください。兄にはあなたのような味方が必要なのだから」とでも言っているセイラを見下ろす。
「大した用じゃないんだ。少し話しでもと思ったが、今日は週末だ。家に帰ると解っているカルヴィナを訪ねた私が悪いんだ。セラは気にすることはないよ。また、明日にでも家に伺うよ。じゃぁ、よい週末を。」
「お互いに。」
 兄・カルヴィナはそう言って出ていくロットバルトに微笑む。
「よかったの?」
 セイラはカルヴィナを見上げる。
「ああ、急ぎの用ではなかったのだよ。さ、帰ろうか。」

 カルヴィナの柔らかな物言いにセイラは頷き、一緒に城を出た。城の格子門は、すでに上げてあって、城から大量の人が流れ出ていって居た。
「週末は、ホント、人が多いわね。」
 セイラの言葉に、カルヴィナはマントを深く被って歩きながら、頷く。
 セイラは人に押されながらバザールまで歩いてきた。
「買い物をして帰りましょう。」
 カルヴィナの言葉にセイラは頷き、前を向いた途端、一人の男とぶつかる。セイラはその反動で後ろにとばされ、カルヴィナに支えられる。
「大丈夫ですか?」
 セイラは頷き、カルヴィナの方を見上げる。
 カルヴィナが首を傾げた。その目の中に自分が居ないと、セイラは振り返る。見たことのない【貴族】だ。見たことのない紋章の入ったマントを羽織っている。カルヴィナやロットバルトのような温厚とは違う、冷静な印象を受ける顔だけが嫌に目立つ。その彼が、
小さな包みを差し出している。
 セイラは身体を見る。「無い!」
「取り返していただいてありがとうございます。」
 カルヴィナがそう言って袋を受け取る。

「噂に違わぬほど治安の悪い街だ。」
 彼はそう言ってカルヴィナに袋を渡す。カルヴィナは少し頷き、顔を上げると、彼を見た。
「城に向かいたいが、すでに終業のようだな。この辺りに宿を探しているが、良きところを教えていただきたい。」
「それならば、こちらに。」
 カルヴィナがそう言って、二人が帰ろうとしていた方を手で示す。
「ありがたい。」
 彼はそう言ってカルヴィナの後を歩く。セイラも慌ててカルヴィナを追う。その隣りに馬鹿ほど大きな男が並んできた。
< 「伴の、パトックだ。」
 彼はそう言うと、パトックと言われた、大きな刀を背負った男は頷いた。かなりの大男は、その頭上から辺りが見渡せるだろうと言うほど、頭が、いや胸辺りから群衆の群を抜いて出ていた。そのパトックを見上げて驚いているセイラに、パトックは頷き、微笑んだ。優しそうな男の笑みに、セイラも同じように微笑む。
「この宿が一番だと私は思ってます。」
 とカルヴィナが案内したのは、セイラたち兄弟の家の隣の宿屋だ。セイラの父親の姉、すなわち伯母の経営する宿屋で【ダチョウの首輪】という名の宿屋だ。小さくて、元は白かった石壁は、すでに茶色に変色し、床板の色もあせて、ニスがはげていたりするところもある。でも、庶民の宿にしては待遇の良さそうな綺麗な宿だ。

「伯母さん、お客です。」
 伯母は小綺麗な格好をしていた。カルヴィナがそうであるように少し緑がかった黒髪を束ね、白の前掛けで手を拭きながら出てきた。
「ここになさるのですか?」
「いけないか?」
 パトックが窮屈そうに肩をすぼめて宿に入ってきた。
「その身体では狭いだろう、パト、君はどこか別な場所に決めるんだ。お前のように重いものが居ては、屋根がきしみ、安心して【私も】寝られない。」
 パトックは首をすくめ、そう言った主を見た。
「明日には城に向かう。その後は、城の役人がどうにかしてくれるだろうが、それも定かではない。だから、二日分の部屋と、食料を頼みたい。」
「まぁ、部屋は存分にありますけど、あなたのような貴族が、うちなんぞに。」
「神官直々に案内してくれた場所だ、悪いはずは無かろう。」
 彼の言葉に、パトックは驚いて頭からマントを掛けているカルヴィナを見下ろした。カルヴィナはくすっと笑って宿屋を出ていく。
 その様子を通りから覗いているセイラは、何故、カルヴィナを神官だと見破ったのか、不思議で、あの男を見た。カルヴィナの身元を隠す目的もあって、マントを被って外出するのは、セイラたち身内以外知り得るものは居ない。街であったなら、あのロットバルトでさえ、このぼろマントを被ったものがカルヴィナだとは思わないのだ。

「そうまで言うなら。そっちの大きい人は、裏にある私たちの休憩室に泊まればいい。」
 伯母はそう言って彼を二階の部屋に案内し、降りてくるとパトックを裏の休憩室である、小麦倉庫に案内した。
 石灰岩で出来た倉庫は、パトックのような大男が入って飛び跳ねたぐらいでは壊れそうもなかった。
 店に出てきた伯母にセイラは近づく。
「あの人はどなた?」
「セイラ、いくら身内でも、お客のことは他言厳禁だ。さ、うちに帰って、夕食を作っておいで。」
 セイラは口をとがらせ、裏戸から隣の家に向かう。
 その様子を、彼は二階の窓から見下ろしていた。
「にい様? あの方はどなたでしょうね? にい様のことを解ってらしたし。」
「さぁね。でもセイラ、彼は我々の味方だよ。」
 セイラは、家に入ってくつろいでいるカルヴィナに首を傾げる。カルヴィナは微笑み、黒茶(黒砂糖を溶かしたお茶)を飲んだ。


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