la

 それは夕方過ぎに降り始めた。花を買いに来た者は、それが落ちてくる空を恨めしそうに見上げていた。
 雨は静かで、幻想的で厳かな空気を、今から始まりを迎える劇場を優しく包み始めた。
 ゼペット・クラームの十回忌コンサート。彼は世界的にも有名なサックス奏者だった。彼の音はその重厚感溢れる音の割りに、繊細で、洗練されていて、そのお陰で多くの支持を受けていた。
 その彼の最後の弟子が、舞台袖に立った。徐々に席を埋めていく客の顔。声、服の色。それが混ざるとき、彼女の目に涙が浮かんだ。
「舞台上から見た風景だ? まだろくに音も出せねぇくせに。まぁ、いいさ。舞台から見るとな、みんな同じ顔をしてる。面白ければちゃんとスイングするし、つまらなければ帰り支度を始める。寝てる客は、面白くないか、その音で本当に気持ちがいいかのどっちかだ。舞台から見る風景ってぇのは、おっかねぇぞ。」
 ゼペットの声だ。深い、アルトサックスの音のように底響く声。
「俺は、女を弟子にとらねぇ。」
 それなのに、最後の最後で、彼女はゼペットの弟子になった。
 十年前、このアメリカにホームステイをしに来た日本人、ジュンはそこで知り合った友達の紹介で、ゼペットと知り合った。そしてすぐに彼の音に引きつけられ、魅了され、弟子入りをした。
「息を吹き吐くのではなく、息を前に押してみろ、腹の底から、静かに押し出すんだ。」
 彼がそう言ったところで、所詮ど素人の彼女に、吹き出せる音はない。無様な、すかすかの音を出すばかりだった。でも、それでも彼女は楽しかったし、ゼペットも楽しんでいた。いや、今だからそれが解るのであって、その当時、彼女は、これほど嫌味で、教え方の下手な奴は居ないと思っていた。
 ゼペットのサックス授業は、他のどのサックス奏者でも真似しないようなものだと思う。
「まずは格好だ。肩幅より少し足を広げ、偉そうに吹くんだ。立ってみな。」
「楽譜? そんなものあるか。ジャズなんてものは耳で聞いて頭で覚えるんだ。だから、楽譜なんていいんだ、そんなもの無くって、吹きたいように吹けばいい。臆することはねぇ。いい音なんてものはねぇんだよ。最初っから。」
 そして必ず決まって後付け足した。
「サックスが上手くなりたけりゃぁ、いい女を沢山抱くことだ。いい女にたっぷりの愛情と、前戯を欠かしちゃぁいけない。」
 それが口癖だった。そして彼女がその言葉に返す言葉もまた、同じだった。
「あたしは女だよ。」
 そういうと必ずゼペットは「女? 俺は女を弟子にしたつもりはねぇ。わけわかんねぇこと言わずに吹け!」と命令するのだった。
 むちゃくちゃな理屈だったが、彼女の耳には今でもはっきりとそれが残っている。離れようとしてもとうてい離すことの出来ない「声」だ。
 ゼペットが死んだのはその頃だ。心臓の悪かったゼペットは、彼女が日本に帰国した日の、彼女が日付変更線上を越えて死亡した。その時、彼女は、支えが無くなり、訳の解らない不安顔感となって襲ってきた感触を今でも覚えている。

 彼女は昨日、ゼペットの未亡人を訪ねた。その周りはまったく変わらなかった。蒼い屋根と白い壁の平屋の家。居間から突き出ているテラスには、ゼペットがいつも座っていた揺り椅子が、主不在ながらそこにあったし、玄関に吊されたウィンドチャイムはあの夏の日と同じ音を出していた。
 未亡人は彼女の来訪を喜び、一緒に墓参りに行こうと誘ってくれた。でも、彼女はそれを断った。 「ここに来るまでね、十年かかったんだ。ここに来ればゼペットの怒鳴り声が聞こえそうで、聞こえない家に来るのは忍びなくって。だから、十年だよ。十年もかかってきたの。えらい進歩だと思うけどね。確かに一度もお墓参りに行っていないけど、でも行けないんだ。まだ生きてるようで、悪戯すぎるよって、墓掘り返して、往復ビンタでもしそうなんだ。ね? だから、行けないでしょ?」
 彼女の声は震えていた。あの日習っていた曲がリピートされるように、昼下がりでセピアに家を変えた部屋に流れていく。必ず「そこ」で間違えては、ゼペットの細い鞭が指に飛ぶ。
 そういう怪しげな趣味はないだろうけど、でも、彼はそれを片時も、彼女の居る前では離さなかった。
 結局、彼女は、ゼペットの弟子入りしている間、一曲も、まともに吹けなかった。
「心残りだったんだ。あのまま辞めようと思ったけどね、送ってくれたでしょ?」
「ゼペットの遺言だから。あなたにはこれを上げて欲しい。学生がサックスなんか買えるわけない、あいつはいい女になる。いいサックスを吹けるからって。」
「……、だから、明日、あの舞台で吹くから。見に来て。」
「勿論よ。ありがとうジュン。」
 彼女と未亡人は傾き始めたセピアの中、熱い抱擁をした。
 ざわつきがいつしか雨の音しか聞こえなくなっていた。大ホール内の舞台袖で、外で降っている霧雨の音が聞こえるはず無いのだけど、彼女の耳にははっきりと聞こえてきた。
 ゼペットの死去の知らせを聞いたのは、日本の空港に着いたときだった。外は雨、夏だというのに、冷たくて、肌に突き刺さるような痛さを感じた。
「舞台に立って、臆したなら、はったりをかませ。胸を張り、体を反り、いかにも上手だという態度を取る。そうすれば例え間違ってたって、何度も同じところを吹いたって、演出だと思ってくれる。ああ、客って言うのは馬鹿か、酔っぱらいだけだ。気にすることはねぇ。」
 彼女は苦笑いを浮かべた。ゼペットなら言いそうだよね、そうして、サックス片手に、ウイスキーのボトルを手にして、中央に進み、どかっとボトルを置くと、まるで三流役者のように仰々しいお辞儀をして、高らかに第一声を上げる。そして全ての人を魅了し、息を飲ませて、その間に全てを終わらせてさっさと引き上げる。ああ、そうだね、ゼペット。客なんてものは皆、馬鹿か酔っぱらいだけだ。こんなに緊張すること無いよね。
 彼女の涙で潤んだ目には、様々な服の色も、あの夏見たソーダー水のような空にしか見えない。
 彼女は普段着のまま舞台中央に向かった。ジーンズに、Tシャツ。十回忌の祭典にはふさわしくない格好だ。所々でブーイングさえ聞こえてくる。
 それが静寂に包まれたのは、そのすぐあとだった。彼女が吹いた甲高い音のあとの、ゼペットがこよなく愛していた、あの日の練習曲を吹いた瞬間、客は口を開けたまま、このちっぽけで、礼装知らずの日本人に魅了されてしまった。
 吹き鳴らされて音符の姿が客の耳を、会場を、そして外の雨さえも味方に付け、まるでゼペットが吹いているような、でもゼペットではでったいに出せなかっただろう、好きな人を亡くした「女の気持ち」がもの悲しく伝わってきたのだ。
 彼女がマウスから口を放して、暫く、無音が続いた。キーンと張る無音なんかではない。本当の静寂だ。耳なんか要らないと言う音だ。
 そして彼女が頭を下げた瞬間、総立ちの拍手はそれから十分も鳴り響いた。ただ、彼女の出番は、彼女のあとに出るプロの前置きであり、彼女にアンコールに応える術も、その後もう一度舞台に上がる権利もない。でも確かに、まだ駆け出しの日本人サックス奏者に惜しみない拍手があったのは、拭い去れない事実なのだ。

 白い、白い病室。殺風景で、目が痛むその中で、ゼペットのか細い息が聞こえる。
「なぁ、まだ、なんにも吹けないよ。」
「感で吹いてみろよ。」
「吹けたら苦労しないって、教えてくれるんでしょ? 寝てないで、起き上がりなよ。」
「てめぇ、日本に帰るんだろ? また来るまで寝かせろよ。」
「ばぁか、そんなことしてたら、ずっと寝ちまうじゃないか。」
「俺は死なねぇよ。まだ、いい女を抱きたい。」
「強欲情ジジ!」
 ゼッペトの最後の鼻笑い。小さい音。彼女を見る目はすでに灰色にくすみ、意識不明だったくせに、彼女の面会に合わせたように意識が回復し、帰った途端に、息が消えた。
 心音も、酸素マスクの空しい音だけ、そして、動きを辞めた医師と看護婦。
 白い白い小さな、目の痛い部屋で、ゼペットは八十九年の生涯を終えた。生涯現役だった彼は、通算五十人の弟子を持ち、彼女はその五十番目の「男弟子」だ。

Cafe CHERIE

第三回SSFC銀賞
2001.Novel Street Presents Short Story Event 「第三回 FIGHT CLUB」銀賞受賞
Novel Streetへはこちらからどうぞ
laは「道端文庫」内にあります。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送