朝も早くから、あの馬鹿は出掛けていった。何が楽しくて、何が面白いのか、私には解らない。 小さな白球を泥だらけになりながら追いかけるそれが、すごく楽しいらしい。 二人の出会いも、その白球一個だった。 家の側にある河川敷野球場。と言っても草むらを近所の人たちが草むしりをして野球場にしたもの。地主さんも野球好きと言って、朝から晩までベンチに座って笑顔で頷いている。 残念だけど、私は野球には興味がない。どちらかと言えばサッカーが好き。あのゴールにまっすぐ飛んでいくボールを目で追いかける瞬間は、きっと野球なんて地味なものとは比べものにもならない。 自転車を漕いで友達の家に行く私。その前輪に勢いよく飛んできた白球。それは、あの馬鹿が打ち返し場外ホームランとなった記念のボールだった。 あの馬鹿は他のどの選手よりも直ぐに駆けてきて、私の上の自転車を直ぐに起こし、私の顔を覗いてきた。 スライディングして泥だらけの顔が不安そうに私を覗く。 「大丈夫?」 「痛い。」 意地悪を言うつもりはないけど、でも、嘘を言う気はなかった。確かに嘘に見えないだろう。左の内ふくらはぎに出血が見られたら。 「俺、病院に連れて行ってくる。先やってて良いぞ。」 「待ってる。」 全員はそう言った。先に進めて試合終わればいいじゃない。私は意地悪にもそう思ったが、彼らはベンチにとって帰り、どさっと好き好きに休み始めた。 「えっと、乗れる?」 彼はそう言って私の自転車に跨り手を差し伸べていた。 「二人乗りって、違反よ。」 「特別に、病人を乗せる場合は許可する。知らない?」 彼はそう言って私を後ろに乗せると、警戒にこぎ出した。でも、近くにある病院ではなく、少し遠い、総合病院へと向かった。 「なんで?」 「俺の親がやってるからさ、金要らないから。」 私は黙ってその看板を見た。田辺総合病院。彼は、田辺 伸也と名乗った。彼が外来に事情を説明すると、暫くして白衣の女性が走ってきた。「ああ、母親だ。」と直ぐに解った。 「ごめんなさいね、野球馬鹿のこの子の所為で。」 いきなりその人は頭を下げ、特別に手当をしてくれた。 「折れてる気配はないし、レントゲンも大丈夫だから。もし痛むようだったら、遠慮無くまたいらっしゃいね?」 恐縮する私に彼女は満面の笑みを浮かべた。 「女の子大好き。」 「はい?」 「うち、息子二人だからね、がさつで、乱暴で、色気が全くないのよ。その点、亜澄ちゃんは良いわね。」 何がいいのやら。とにかく彼女は私のことをいたく気に入ったらしかった。 それからだった。馬鹿こと伸也とたびたびあの野球場で顔を合わせ、彼女もその話を聞いて非番にはそこに居て、なんだか知らずにベンチに座っていた。 「何が楽しいのかしらね?」 私と彼女は同時に首を傾げた。 小さな白球一個を、いい体躯した男達が一喜一憂で追いかけている。投げて、打って、捕って、守って、走って、それのただ繰り返し。 サッカーのように全速で走り攻撃している様子はまるでない。すごく白けてしまう。世の中の人がナイターの試合に興じる気がますます解らなかった。 「なんで、野球をしてるかって?」 伸也は意外な質問だといわんばかりの声を出した。周りも私を見ていたが、伸也の答えに頷くだけだった。 「好きだからだよ。野球が好き。それだけ。」 それだけで、泥にまみれ、無理して走り込み、そんな負荷をかけるほど楽しい? その日は土砂降りだった。 あの野球場は、地主の死去とともに、息子の代に変わるとマンションが建つという。その最後の日。 日曜日に、お世話になった人たちが集まり、紅白戦をしようと盛り上がっていたのだ。下は小学生から、社会人まで、総勢五十人近くが今日の日のことを笑って話していた。 勝ち負けじゃなく、ここでの最後の試合を、ここを使っていた人たちで出来たら、それはすごくいい思い出になるだろう。そのはずだった。 でも雨。 伸也は傘のしたから土砂降りで、ぐちゃぐちゃのグランドを見下ろした。少しずつ集まってくる人たち。 「やっぱり来た?」 それが妙な挨拶だった。でもみんな、雨なんか気にせずにあのグランドに降りていきそうだった。 「雨が降るとさ、センター抜け辺りがぬかるんでて、よく違うとこに飛ぶんだよな。」 「あとライトも。」 「ベンチ前のぬかるみもさ、たまにだけど飛んでくると跳ねて、俺泥の入ったジュース飲んだことあるんだ。」 「白線が見えなくって、スライディングすると、口ん中泥だらけでさ。」 押し黙り、雨の音が総てを包む。 「やるか?」 誰かがそう言った。私は伸也を見た。黙ったままの伸也は本当に暗そうだった。このままさよならも中途半端に別れるのは嫌そうだった。それが雨を降らせている気もした。でも、「やるか?」その言葉を聞いた瞬間、伸也はいつもの伸也だった。 馬鹿で、野球しか知らなくても、生きていけるような脳天気な顔。誰も止められないんだ。 好きだから、ただそれだけ。 今なら解るよ、あんたがそれほど熱中する野球の魅力が。小さな白球を追いかける大人も子供も同じ。誰もが同じ事をしてる。 サッカーも、ラグビーも、いろんなスポーツみんなそう。みんなが同じルールで同じ事をする。それが楽しいだけ。 今なら解るよ、泥だらけになっても、好きなんだって。 汗を流し、酷使する練習も、総て好きだからなんだよね? でも、もうここは終わってしまう。そう思うと、私は涙が出てきた。 私がここに来ていた時間なんて、伸也達ほどでないのに、珍プレーで大笑いし、走者返送で大声で応援し、好プレーで手を叩いた。あの時間が今では惜しい。 彼らはそれぞれの練習場所を見つけた。伸也たちはここよりも少し遠い場所へと移動した。 そしてここには大きなマンションが建ち、すでに入居者がいる。 「日曜日に?」 夏の暑い最中、伸也は野球の試合を見に来るように言った。暑いなか行くと、伸也の母親も来ていた。 「甲子園に行くんだって。」 母親の口から聞いた言葉。 「甲子園?」 「亜澄ちゃんを、連れて行くんだって。」 「ば、馬鹿。」 冬の国立や、花園よりは盛り上がると豪語した伸也。高校生にはいって、部活でしごかれ、青あざを付けていたあいつの最後の夏。 あの馬鹿がそう言ったのなら、行けるかも知れない。 甲子園。 憧れてるの? そう聞くと、首を振り、 「俺、メジャーに行くんだ。ただその足がかり。」 と笑った。 そんな簡単じゃないでしょうに、そう言うことを言う。そしてそれを実現させると、私も信じてる。 馬鹿って、伝染するんだ。 そして、私は少しずつ野球が好きになっていた。 今なら解るよ、あんたが野球を好きな理由。 |
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