陽だまり


 暖かな日差しの中で、彼女は病院という限られた敷地内の、入院患者用に設けられている公園のベンチに座っていた。彼女のそばには、犬が伏している。
 どこか幻想的なその淡い空気の中に居る彼女に、私は近づいた。
「あら、先生。」
 軽やかな鈴の声がして、彼女の笑みが満開に咲き誇り、私を見上げてくれた。
「隣に座っていいですか?」
「どうぞ。」
 彼女は柔らかに笑い、私はその彼女の隣に座った。
「今日は、ずいぶんと天気がいい。」
「ほんと、暑くもなく、寒くもなく、風も穏やかだわ。」
「少しは、なれましたか?」
「ええ、でもやはりだめね、病院は窮屈で、中に居続けると余計に病気が重くなりそうで。」
 彼女の病気は肺炎をこじらせた比較的軽い症状なものだ。そして私は彼女の主治医だ。
「もう診察はないんですか?」
「今日は外来は済んで、後は巡回するだけ。でも少し休憩をと思って。そうしたら、君が気持ちよさそうに座っていたからね。」
「本当に気持ちがいいから。」
「花も咲いてるしね。」
「鳥だって飛んでる。」
「気分いい?」
「ええ、でも、まだ退院は、したくないです。」
「それは、もう少しかかると思うよ。公園までなら君の顔は柔らかだけど、それより先に話が及ぶと、自然にに力が肩に力が入ってるからね。」
「解りますか?」
「これでも、医者なので。」
 彼女は小さく笑った。私はこの笑顔が好きだ。いや、彼女に限らず、心に病を追ったものが、その傷を癒し、そして笑ったとき、そこには無償の喜びを与えられる。
 どれほどの苦痛と、悲痛を背負って病院に来るか知れない患者の、回復見込みのある笑顔。
「そろそろ夏ですかね?」
 彼女の言葉に誘われるように私は空を見上げた。青い空に白い雲、確かに夏が来る様な気配だ。
「夏は好きですか?」
 彼女の問いに私は自然に頭に手が伸び、がしがしと掻いて苦笑いを浮かべる。
「どちらかというと、苦手ですな。あまりいい思い出はありませんね。」
「そうなんですか。まぁ、人それぞれだからしょうがないですよ。でも、苦手って言うのもおかしいですね。」
「そうですかね?」
「ええ、好きとか嫌いならわかるけど、苦手って言うのは、なんだかおかしい気がしません? 苦手なものって、極力避けて通れるけど、夏は避けられないでしょ? 南半球に逃げれば別だけど。」
「出来れば避けたいほどな思い出ですよ、よく夏に振られるんですよ。」
「先生が?」
「信じられませんか?」
「ええ、素敵な方じゃないですか。」
「くすぐったい表現ですよ。」
 彼女とのたわいのない会話の間中、そよ風は二人の周りをすり抜けて生き、日差しは午後へと傾いていく。
「そろそろ巡回なので、戻ってもらえますか?」
「そうですね、十分日向ぼっこしたし。」
 彼女は自分の袖口を口に持っていった。
「どうかしましたか?」
「いいえ、お日様の匂いがするなって。こうやって日に当たってると、お日様の匂いがするんですよ。」
 私も彼女に習って袖口を鼻に持っていったが、するのは胡散臭い消毒液のにおいだけだった。
「そうだ、私が声をかける前、なぜ私だってわかったんです?」
「視覚障害者は、健常者よりも、嗅覚や聴覚が優れてるんですよ。先生のその匂いでわかったんです。優しいいいにおい。」
「洗剤でしょ。」
 彼女は小さく笑い、相棒の首のハーネスを握り起こして歩き出した。
「匂い、かぁ。そういえばそういうものを嗅いで風情を味わうこともなくなったなぁ。」
 私はどこか寂しさをかみ締めながら空を見上げた。
 昔なら、なんてことはない初夏の匂いとか、土や、花。飯時の匂いさえも敏感だったはずなのに。
「こりゃ、五感麻痺に陥ってるかも。新しい成人病だったりして……。」
 私は笑いながら、数メートル先で立ち止まり、私を待ってくれている彼女の元に駆け寄った。
「あ……、あなたも、いいにおいがしますよ。」
 彼女に近づき、風が一瞬運んできた、シャンプーの匂い。彼女は笑顔で私を見上げた。


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