一通の書簡がポストに落ちた。差出人のない、宛名しか書かれていない手紙。消印はイタリアのようだった。それだけ読めて、街の名前が読めなかった。 中身は解っている。ただ一言「AMUSANT」=楽しい。と言うフランス語だけだ。 受け取ったのは女性だった。彼女はそれを胸に抱き締め空を見上げる。彼と唯一つながっている気のする空。この空の行き着いた辺りに彼はいるのだろう。 彼女の名前は夏木 るい。普通のOLだ。事務処理に日がな一日追われ、休日はショッピングか、家でレンタルビデオを見るくらいで、派手さもなければ男っ気もない。そろそろ周りは結婚していくが、彼女はいたってそういう気配を見せない。 両親は複雑そうに、行き遅れてしまうのだろう娘を見ている。 簡単に許せる相手を、彼女は好きになったのではなかったからだ。 彼とは高校の時の同級生だった。三年間ずっと同じクラスにいながら、彼はるいを知らなかった。三年生の夏休みまで。 彼の名前は藍住 徹。ごく『普通』の金持ちだ。代々続く藍住グループの御曹司。その肩書きが嫌いで、彼はよくある非行という道に逃げていた。 煙草、無免許運転など様々やったが、生憎、シンナーや薬には手を出さなかった。彼は知っていた。自分が金持ちである以上に、容姿端麗だと言うことを。うぬぼれや、ナルシストだとしても、それは数年後立派に立証されるのだから、確かに綺麗なのだ。その顔が薬やらで歪むのを極端に嫌ったためそれには手を出さなかった。 友達は皆、彼の金によりたかる虫のようだった。ただ例外は数人居た。そんな彼らと待ち合わせた神社で、徹はるいと会った。 高校三年の夏祭りのことだった。 浴衣を着ている人の波。徹は石垣に上り、黙って煙草を吹かしていた。そうしていても補導されないだけの貫禄とか、顔立ちがあってか、警察でさえ素通りする。 煙草を吸うのもばからしくなってきた。結局大人振りたくて始めたような物だったし、趣向嗜好にはあまり向いていないといつも思っていた。 その時、前を通った人が咳をした。つい、慌てて消して謝る徹に、彼女は笑顔で頷き、 「消してくれてありがとうございます。人混みで吸うのは、辞めた方がいいですよね。」 と立ち去った。オレンジ色の、でもそれは夜店屋の電飾に照らされているだけかも知れない。そんな色の浴衣の子だった。 確かその日の昼間、何だか久し振りなものを見た。 「ひまわり。」 何だか忘れ去っていた情緒だとか、優しさのようなくすぐったいけれど、決して失いたくないと縋っていたものが急に目に付いた。その所為かも知れない。彼女の浴衣がひまわりに見え、それが徹には眩しかった。 徹はなんだかんだとやはり目立つ。背は高いし、綺麗な顔立ちをしているし。だから、よく絡まれる。黙って鋭く辺りを見ていれば仕方がないことだが、その時もたったそれだけで神社裏に連れてこられた。 徹の思いため息を余所に、彼らは多勢に無勢で、おおいに吹いていた。 (おお吹け、吹け。) 仰々しい言葉を並べているが、結局、金を出せと言う嚇しに変わりなかった。 「わりぃけど、持ってない。」 実際持っていたのは煙草代の五百円で、本当に持っていなかった。だがそれで納得するほど理解の良い相手では無さそうだった。 無ければ無い出と殴りかかってくる相手の拳は、綺麗に顔を狙ってくる。 綺麗な顔だと自分で知っている徹にとって顔を殴られるのは、大金を落とすより腹が立つ。 徹はすぐに綺麗に長い足をたかだかと上げてそいつの左顎をけ飛ばす。 「いやぁ、足が長いってのも考え物だぁ。」 徹の小声は彼らの闘争心に火を付けたが、徹はあざ笑うように避け、綺麗に適所を蹴りつけていく。だが、生憎徹の蹴りは致命傷や、ぐったりさせるほどの威力はなく、相手はゾンビのように立ち上がってくる。 そんな彼らの喧嘩に気付いた人たちが警察を連れてやって来た。点で散らばる彼らに紛れて徹も走る。 何だかこうして走ることが窮屈で、捕まろう。面倒だ。と立ち止まった場所は湖水占いで有名の池の側だった。そのほとりに一人の女の子が立っていた。一瞬、 「幽霊?」 と言った徹に、彼女は体を二つ折りにするほど笑って、怒声が近付いてくるのを聞くと、徹に近付き、その手を握った。 「あ?」 彼女は小さく「し」と音を出し、指先を唇に当てた。その子供っぽい仕草を見入っていると、大人たちが追ってきた。 「喧嘩していた奴らがどっちに走ったか知らないかな?」 「喧嘩していた人かどうか知りませんが、向こうに走っていく人居ましたよ。」 彼女は凛と鈴を鳴らしたような声で言った。その声に彼ら大人たちは会釈をし、 「恋人も良いけど、勉強もしなきゃだめだぞ。」 と笑いながら走っていった。 「知り合いなのか?」 「いいえ。知らない人。多分、生徒指導の会の人よ。」 「でも学生だって、」 「大人には見えないと思うわ。」 確かに彼女は高校生に見える。はつらつとしていて、生気に溢れているように見えた。そしてその彼女の浴衣はあのひまわりだった。 「さっき、」 「煙草を消してくれたお礼。あの近くで私も待っていたの。友達を。でも、みんな彼氏と来て、結局私一人になったから、ここで占ってたの。」 「ここって、確か。」 「未来の伴侶が映るって言う池よ。でも本当かどうか解らないわ。」 「見えなかった?」 彼女は頷き、池の側に立って、 「まいむまいむまいむ、私の未来の旦那様は誰?」 「まいむまいむ? そりゃ、ダンスの掛け声だろ?」 「え? でも、そう聞いてるよ。」 「そりゃ呪文間違いじゃないのか?」 「そうなのかな?」 彼女は池を覗く。それと一緒に徹も覗く。 「だめだよ、覗いちゃ。私が藍住君と結婚するわけないんだし。」 「お前、」 彼女の方が驚いていた。でも直ぐ、少し寂しそうな顔をして、 「まぁ、目立たないからね私。でも、これでも三年間一緒のクラスだったんだけどなぁ。なんかショック。」 そう言って池に移った彼女の顔は本当にショックを受けているようだった。 「否、俺。」 「嘘。しょうがないよ。だって藍住君の側には綺麗な人が沢山居るんだし。」 胸が締め付けられていく。徹がのどの渇きに答えて唾液を飲み込んでも、それらは治まることはなかった。 「もう、向こうに行っても大丈夫じゃないかな。捕まらなくて良かったね。」 彼女はそう言って小さな巾着を後ろ手で持った。 「名前、聞いていいか?」 「聞いてどうするの? 呼びやすいとは思うけど。」 「なぁんとなく。」 彼女は小さく笑い、夏木るいだと言った。 「夏木、るい。」 そうなんども口の中で唱する徹に、るいが首を傾げる。 「どうしたの? なんか、変? あたしの名前。」 「否、いい名前だと思う。すごくいい名前だ。」 「ありがとう。」 るいは笑った。ひまわりの浴衣も同時に笑った。 徹の心は今、この池を取り巻く闇と同化している。それを少しだけ明かりが灯ったのなら、それはるいの明かりだ。 「側に居て、いいか?」 「側?」 「すごく、一番近い側。」 るいが首を傾げる。 「るいの、側に、居て、」 徹の目から涙がこぼれる。大粒の涙は、つながらずに、粒で落ちていく。 「藍住君。」 るいは徹を抱き締めた。 「いいよ、私藍住君好きだから。」 そう言ったるいを徹は抱き締められなかった。手を回そうとした手を下ろし、ただるいに抱き締められていた。 情けない男と言うのだろうか? 何も出来ず、女に喰わせてもらっているヒモ。そんな男が頭をよぎった。 「本当は、誰でも良かったんじゃないだろうか。」 「きっと、そう思う。」 るいは優しく答えた。でもその答えは、徹に見返りを期待してなど居ないと言っている。 「るいのこと好きじゃないかも知れない。」 「きっと、好きじゃないわ。」 今までのどの子とも違う答え。好きだとか、愛しているとかそう言わないと機嫌を悪くした女たちとは違う。 「でも、私は、藍住君が好き。それでいいんだ。珍しいでしょ。こういう子。だから悪い奴に騙されるとか。良く言われる。」 るいの笑い声が鈴のように心に染みる。夏の熱い日に聞く無数の風鈴。煩いと思っても、それだけで夏だと安心するあの音に似てる。 「俺、騙してる?」 「何を?」 「気持ち。」 「知らないよ。」 るいは笑ってハンカチを巾着から出して徹に差し出した。 「どうぞ。」 徹は指しだした手を握った。るいは何も言わなかった。 後日。学校の中で徹は確かにるいが同じクラスの女子だと知り、声を掛けられない距離を認識していた。 徹の周りにいる煩い女どもの輪から、るいは離れていたし、好きなアイドルの話で盛り上がっていた。 そんな二人にたまたま先生が用を頼んだ。図書室に本を取りに行ってこいと言うのだ。廊下は授業中で静かすぎた。廊下を踏みしめるゴムの音だけが響く。 図書室にいる先生がちょうど昼に出掛け、そこは静かな二人の空間だった。 「るい。」 「早く捜そう。結構見付け難いって言ってたし。」 るいは本棚の間に入って上を見上げる。徹もその間にはいると、るいはするっと床に座った。 「るい?」 「大丈夫。ちょっと、耐えられなくなってて、藍住君が名前呼ぶから。」 るいは顔を覆った。涙が出ているか不明だが、体が震えている。 「るい?」 徹が体を触れると、るいの体は大きくはね、徹をしっかりと見た。 唇を噛み、目から今にも涙がこぼれそうだった。 「卑怯ね。ごめん。」 言っている意味が解らない。痩躯日を振る徹にるいは大きく息を吐き、立ち上がって本を探し始めた。 「人間は酷よね。嘘、偽れる言葉を信じれないくせに、誠意や、真実を伝える手段が言葉しかないんだもの。」 るいは笑って本棚の上の方を指さす。確かに本はあった。 「嘘だからね。まず、前置き。」小さく、自分で話してツボを得たような笑い方。「あの日。神社で何も言わなかったのはね。藍住君の負担になるから言わなかったのよ。うふふ、これも嘘ね。それでね、本当は、好きなんだとか、愛してるとか、嘘でもいいから言って欲しくて、そのためだったら、あのままレイプされても、否、レイプという言葉は良くないね。そう、性行為? なんか変ね。へへへ。でも、セックスしても良いと思ったんだ。たった一度きりで、忘れてくれても、一度でも、好きだとか、愛してるって言ってもらえるならそれでいいかなって。ああ、これも勿論嘘よ。私言われ続けるの嫌いなのよ。本当に。でも、あの日はいいかなって。嫌なことあって、それですっきりするなら、私は藍住君を浄化できたんだって、そう思えるかなって。」 徹はるいを抱き締めた。それ以上言わせておくには辛すぎた。るいは自分を汚れさせていく。言葉で自分は汚いのだと思おうとしている。それが徹には解った。 「じゃぁ、俺も嘘だけどね。あの日、抱けなかったのは、離れられないと思ったから。抱き締めると、離したくなくって、このままどっかに逃げようかと思った。このまま世捨て人もいいかなって。でもそんとき目に止まったんだ。浴衣の下に着てたシャツ? あれに夏木って名前書いてたろ? ああ、こいつ。家族に大事になされてんだぁ、って。俺、家族愛に恵まれてないから敏感で。あの状況だとお前は、いいよ。って言うだろうけど、それじゃぁだめだって。だから、俺、抱けなかった。そのために、不安にさせてたんだな。」 るいは違うと首を振ったが、暫く二人は抱き締めあっていた。 「もう、行こう? 先生に怒られるし、下手に勘ぐられるの、いやなんだ。」 るいは笑って離れた。 「良いね、あれはぜーんぶ嘘だからね。」 「ああ、俺のも、ぜん、ぶ……。」 「好き。も嘘。」 「好きだ。も嘘。」 二人は本を持って教室に戻る。遅かったという教師に徹は明るく言った。 「先生、あの子ちっさすぎてみつかんなかったんすよ。」 「お前は何してたんだ?」 「どうも、図書館にはいると、眠くなって。」 と大袈裟に欠伸する。 徹の陽気さに誰もが驚いた。 高校を卒業すると同時に徹はパリに渡り、スカウトの成すままにパリ・これに初登場しそのままモデルとして活躍をする。 その時から続くこの一分の手紙。たった一行の言葉。 『楽しい。』 には徹の今が全ては入ってる。どんなに辛くても、どんなに仕事がしんどくても、るいと離れていることの方が辛い。でもそれを言わない。それは嘘だから。 「言葉で言えば簡単だけど、簡単な分、真実みが失せ、嘘に聞こえる。いいんだ。言わなくても解るから。好きだって。その存在で言ってくれるから。俺は元気だ。そっちも元気だろ? また連絡する。」 たった一言にそれが詰まってる。どんな言葉以上に、好きだ。が詰まってる。だから、るいはそれを胸に押し当て空を見上げる。 親が反対する理由も解る。今時と笑うだろうが、さすがにあの財閥と親戚になるのは抵抗がある。家を捨てても、モデルなど、不安定なフリーターと変わりない。 逢えなくてもいい。好きだから。応援しているだけでいい。彼が手紙を書くのは自分だけだと知っているから。不安など無い。恐くもない。 それが例え嘘でも、いいのだ。毎日届く手紙を胸に押し当てるだけで。 そしてそれをるいはすぐに捨てる。残しておく必要のない。嘘の好き。好きの嘘。 時々混乱する嘘。でもそれが真実。矛盾と、正論。どちらも徹なのだ。 ゴミの日のあとのからだったゴミ箱に、るい宛の手紙が放り込まれる。中身はたった一文。 「AMUSANT」=楽しい。と言うフランス語だけだ。 |
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