抜ける空 白石 雅也 身長百八十強、大巨漢な身体はいつも繋ぎに包まれ、それは油の匂いが染みついている。だからこそ、格好いい男ではない。でも、知り合った人ならば皆一応に口を揃えるのが、彼の優しさと人の良さ。だから彼は人に好かれる。しかし、女性には、本当に縁がない。 日曜日は、取り急ぎの仕事でもない限り、バイクを軽トラの荷台に積み、自宅から二時間、高速を使って、山の中にあるレース場へと向かう。 すでに数台の軽トラや、バイクを乗せてきたであろう大型車が駐車していた。 「マサさん。」 雅也が軽トラからご自慢の「NSR」を降ろしていると、後ろから聞き慣れた声で呼び止められる。雅也はにこやかに微笑み、バイクごと振り返ると、そこには藍住 徹 「いつ帰ってきた?」 彼はモデルをしている。先月はニューヨークのショーに出るとハガキをもらっていた。 「昨日。なんだかバイク触りたくなって。」 「また、彼女に会えなかったな?」 徹と彼女は物入りの訳ありなのだ。藍住財閥の御曹司にも、かなわぬ相手が居る。そう徹はいつも嘆くが、そう言う難しい山を切り崩そうと努力してすでに数年、まったく感心する。それほど好きだと言われている彼女は幸せ者だ。 徹は雅也がバイクスーツに着替えるまで、雅也が今朝してきた点検と同じ事をバイクに施している。してきていることを知っていても、そしてしてきたのに、雅也は徹の好きにさせる。そしてそう言う雅也のバイクを徹はいじっていて凄く嬉しいと思う。 「で、マサさん、女は? この前、紹介されたっしょ?」 そう言えばそう言うこともあったな。と言いたげに雅也はパドックの天井を見上げる。 「やっぱりさぁ、バイク好きな「熊」には、誰も相手しないだろう。」 「また、バイク談議? だめだなぁ。一生出来ないっすよ。」 「なんか、面倒なんだ。あれこれ話さなきゃいけない気がするが、なにを話せばいいのか、そして、話したところで、話が解らないと言われるだろ? それに、やっぱ、バイク好きな子じゃないとな。」 「居ないって、そういう子。」 「だよな。」 雅也はため息を付いたが、それほどそれを残念勝手など居ないようだった。 「そうそう、カズ、」 徹が思いだしたように口にした名前。仲間内では一番年下の松浦 和矩 「カズがどうした?」 「すんげー偶然。偶然というか、ロマンチックに言えば、必然。だな。」 「は?」 雅也は手を止め笑う徹を見下ろす。 「あの子の親友が見つかった。」 「あの子? カズの初恋の? 徹はおかしさを堪えるように頷き、その晩のことを話した。先月の年越しパーティーで、徹はモデル仲間であり、雅也とも知り合いの神崎 宏樹 雅也は鼻で笑い、グローブをはめながら、 「カズ、驚いただろ?」 「すんげー驚きようと、その後のすんげー嬉しそうな顔。」 「想像つく。」 「だろ? まったくガキだな。」 「と言うことは、そこにあのデザイナーが居て、ヒロは誘ったのか?」 「誘おうとしたら、カズに追われて彼女出て行ってさ。」 「ヒロには災難だったな。」 「まぁ、そうっすなぁ。でも、カズのあの顔見せられちゃぁ、どうしようもない。」 雅也は鼻で笑うと、バイクに跨り、その股ぐらにエンジンの熱と振動、そしてそいつの調子を感じ、シールドを降ろすと、親指を立ててコースに躍り出た。 「ああ、走りたかったのね。」 徹はそう言って出ていった「熊」を見た。曲芸の熊だな。バイクに跨り、妙に大きなヘルメット、その大きな体を小さなバイクに押し付け、苦しいはずなのに、嬉しがっている背中。 「ありゃぁ、当分どころか、女出来ないなぁ。」 徹は雅也が気が済むか、不調を訴えてパドックに戻ってくるまでパドック奥のパイプ椅子に腰掛け煙草を燻らす。 徹が来たお陰が、雅也はバイクの調子をやたらときにせず、走行に熱中できた。徹や宏樹もバイクには乗るが、もし万が一にも事故すると、顔が命のモデル業者だけに、自分の喰いっぷちを減さすことはしないのだ。だが、バイク好きな徹はそれを触りにやってくる。宏樹はバイクの新型モデルのオーディションを受け、それの走行で満足している。 レースをするときの興奮、心臓がぎゅっと締められてもなお、頭や、身体、目がカット開いて走るその瞬時の感覚には劣るが、バイクから離れられないことには変わりない。 シールド越しの空は、少し黒く霞んではいるが、冬の青空が覗いていた。 雅也が帰り支度をし、バイクを荷台に乗せ終わったとき、久し振りの再会をしている徹と、その彼女泪が居た。 「お久しぶりです。」 小さくて、小綺麗で、可愛い子。雅也もこういう子が嫌いではないが、こういう子だと、つぶしそうで、かえって怖い。 「俺、こいつの車で帰るから。」 「あんまり、遅くならないように帰れよ。」 「解ってる。」 と言いながら、結局日本にいる三日、四日、彼女とホテルに泊まるだろう。そうしてお互い精気を養ってまた二ヶ月、三ヶ月と離ればなれになる。そしてその間、お互いの親から別れろと言われ、徹などは、財閥を継げと迫られる。それに耐えるすべがたったのこの期間なのだから、あの二人は偉い。 どうせ、彼女が出来、付き合うのなら、ああいう環境は嫌だ。側に居て欲しいと泣かれて側に居られないのは、彼女より俺のほうが辛いじゃないか。 雅也は軽トラのエンジンをかけ山を下る。途中、今夜ある峠の勝負に備えて山を登っていく数台の峠攻めの車と擦れ違う。県外ナンバーが十台。かなりいじっていて、足回りがしっかりしている。 だが、雅也にそんなことなど関係ない。山を下り、家に帰る前にバイクを修理工場に置いておこうと、いつもならしない左折をする。 ここの交差点は、この時間やたらと混む。信号を二つ待ちしてやっと先頭に並ぶ。退屈と、選択ミスにハンドルに身体を預ける雅也の、助手席側の窓が叩かれた。 この交差点の、ちょうど向こう側に交番がある。バイクを乗せているくらいで職務質問か? そう言う顔で横を見れば、きっちりと髪を束ねた女が窓を必死で叩いていた。 ハンドルガラスを開けると、彼女はこっちの言葉を待たずに、 「お願いです、病院まで乗せてもらえませんか?」 と言ってきた。雅也が身を乗り出すと、妊婦が蒼白した顔で唸っているのが見える。 「少し待って。」 そう言ったが、彼女に聞こえたか不明だ。何せ信号が変わり、後ろからけたたましいクラクションを鳴らされたのだから。 吉崎 美登里は平日はOLをし、土日に限って、料理学校の臨時講師をしていた。今日もその授業があった帰りだった。いつも混む嫌な横断歩道に近付いたとき、一人の妊婦が苦しそうに座り込んだ。なのに誰も声を書けない。美登里だって、声をかけるのを躊躇していた。 今日の授業は散々だったのだ。今日の生徒は、生徒達の中でも手強い五十代の主婦。暇と金を持て余した彼女たちに、どれほど言ってもフレンチは作れない。作る気がないのだ。習いに来ているが、必ず、「でもねぇ、こっちのほうが美味しいわよ」と煮物やら、煮付けを作る。それじゃぁ、なんのためのフレンチ料理学校? と言いたくなる。 そんなおばさん達を相手にしてきた帰りなのだ、重い体を引きずっているのに、更に家に帰れないなど。 でも元来の正義感の強さか、それとも、単なるお人好しか、美登里は妊婦に近付いていた。 「大丈夫ですか?」 「痛い。もう、だめ。」 お産だ!! 美登里は焦りながら顔を上げて直ぐ目に入った軽トラに近付き、とにかく戸を激しく叩いた。 「お願いです。病院まで。」 しかし車は無言で走り去った。 世の中って言うのは非情だわ。美登里はそう思いながら、妊婦に戻る。 「この人だね?」 美登里は驚いた。軽トラの男は、クラクションを避け、近くにトラックを止めたあと、戻ってきたのだ。 雅也は妊婦を抱え、美登里に付き添うように言った後で、荷台に乗せ、バイクを降ろす。 「これ、バイクを包むカバーで、結構汚れてるけど、ないよりはましだと思うから。えっと、この近くの病院でいいんだね?」 大きな体躯、厳つい顔から出てくる優しい声に妊婦は安心したのか肯く。雅也は美登里に頷き、ゆるりと車を走らせた。 病院に着くと、雅也は軽々と妊婦を持ち上げ、そのまま診察室まで連れて行き、あとは美登里と一緒に分娩室前で待っていた。 五分ほどして産声が聞こえてきた。 「あ、泣いた。あ、生まれたんだ。」 妙な感覚だった。生まれるから助けてくれと言っていたのだから、泣けば生まれたのだと解るのに、何故だかそう言葉にしてしまう。そして、それが我が身のことばかりに嬉しくて、そして、体中に鳥肌が立つ。 それから十分後、よれたスーツのご主人が走ってきた。事情を病院側から聞いたという旦那は雅也と美登里にしこたま礼を告げた。 「さて、家まで送りましょうか。否、嫌ならいいんですよ。何せ軽トラですからね。」 雅也は笑って美登里を見た。美登里は軽トラとを交互に見たあと、 「バイク、取りに行かないんですか?」 「ああ、もう無いと思うよ。」 「盗られたって言うんですか?」 「きっとね。」 「ごめんなさい。私が、」 「違う、違う。強いと言えば、あの場所に軽トラで居た俺が悪いんだから。乗用車だったら、まだあの妊婦さんも座り心地良かっただろうしね。」 雅也の言葉に美登里は顔をしかめ、雅也の言葉に甘えてあの場所まで連れて行ってもらうことにした。 美登里の重苦しい空気に、雅也はバイク談議を始めた。そう言えば、徹に、女の前でバイクの話は止めろと言われたばかりだった。 「走っててね、シールドから見える空が抜けるように青いんだよ。そうすると、風が身体をふって持ち上げて、風と一体になれる。なんてかっこいい奴が言うとかっこいいんだけどね。俺じゃぁ、ただ臭いだけだけど、とにかく、バイクっていいんだよ。」 軽トラが戻ってくると、やはり愛車NSRは居なかった。 「ごめんなさい。」 美登里が再び謝ると、雅也は困った顔をして頭を掻く。 「そう言われるとね、何て言うんだろ、せっかくいい気持ちだったのに。」 美登里はこの変わった男を見上げる。 「人助けしていい気分じゃない。まぁ、損は大きいけど、いいことあると思えばね。」 美登里はこの男の言葉の音に聞き入ってしまっていた。不思議な存在感。暖かくって、優しくて、思いやりに溢れた、不思議な音を出す人。 「あ、帰ってきたかい?」 二人が振り返ると巡査が立っていた。 「バイク預かってるからね。本当なら駐禁だが、善良行為に敬意を払って、預かってるから。とりあえず交番にサインしに来てくれるかな?」 雅也の顔は更に喜びを吹くんだ。愛車は確かに交番前にいて、雅也を待っているようだった。 「ありがとうございます。」 「否、君らのことを見ていてね、本当なら私たちが行くべきだったが、つい甘えてしまって。だから、そのお礼。だな。」 巡査は頭を掻いてそう言った。 「良かったです。」 荷台にバイクを括る雅也に美登里が声を掛けると、本当に嬉しそうに肯いた。 「本当に嬉しいよ。ほらね、言ったろ? 良いことがあるって。」 雅也の言葉の音は、すっかり美登里の心を和ませていた。あのおばさん達のきちがいじみた奇声を忘れさせてくれる。会社の上司の嫌味や、言語セクハラ。それらで固執していた心が解凍される。 また逢いたくて、その声で癒されたい。美登里はそう思っていた。 「あの、また、逢いませんか?」 雅也はバンドと、車の留め金に指を挟むほど驚いて、すっかりバンドを放してしまい一からバイク固定をやり直さなければならなかった。 「なんで?」 「あ、ご迷惑ですね。」 「いや、そんなこと無いけど、いや、なんで、俺なんかと?」 「ただ、逢いたいから。」 美登里の笑顔に雅也は再びバンドを手放す。 結局雅也がバンドを締め上げ、家に帰ったのは、それから三度ほど縛っては手放すを繰り返した後だった。 翌日、油と、工具の匂いの染みた工場に、軽やかな声がして振りかえると、すっかりいい顔をした美登里が立っていた。 「私、会社辞めてきたんです。それで、これから料理学校の講師を本職にして、いずれ、小さなお店を開業しようと思って。白石さんが好きなことしてるときの顔見てたら、私もそう言う人になろうって。白石さんのように、好きなことしていることがどれほど素敵かって、みんなが思えるような人になるたくて。大変だろうけど、やってみようと思って。」 「俺の所為で会社辞めたの?」 「違います。ずっと辞めたかったんだけど、踏ん切りが付かなくて、でも、いい切っ掛けをくれたんです。だから、これお礼です。お昼に食べてくださいね。」 大きな四角い弁当箱。多種多様、色とりどりの弁当の中身。 雅也はなんだかそれを掴む気になっていた。 「何かあったら、おいで、バイク、乗せてあげるから。嫌なこととか、すっきり忘れられるし。」 「バイクより、白石さんに会いに来ますね。」 美登里はそのまま走り去っていった。 「ほぅ。」 雅也が振り返ると徹がにやにやと立っていた。 「昨日の今日ですっかり彼女ゲッチューではないですか?」 「ば、馬鹿野郎、あの子は昨日、」 雅也はなにも続けず、走り去った美登里の背中を見た。 「べっぴんですなぁ。名前は?」 「え? いや、しらん。」 「マサさん?」 雅也が美登里を名前で呼ぶにはそれから一年が過ぎてだった。どういう切っ掛けだったか雅也は忘れることにしている。吉崎さんが、美登里さんへ、そして、美登里と変わるのに一年。でも、美登里はそのつど嬉しかった。 照れるその顔を見ているのが好きだし、一緒にいることで安心するから。 空はよく晴れて、遠く遠くに青い色がある。それをシールドから覗けば、それは更に遠く、高く、青く感じる。 世界のすべては早く過ぎ去り、なにも聞こえなくなる。でもただ一つだけ、美登里の姿と、笑顔は見逃さない。レースで優勝することはないが、それでも続けることに美登里は喜んでくれる。 空が地上と混ざり、息苦しさと、やみが迫った瞬間。雅也は転倒者のあおりを受けてくラッシュ。壁に激突してしまった。 気付けば二日ほど生死を彷徨った病室にいた。美登里は寝ずに側に居たらしく、眼は赤く充血していて、傷心していた。 「気付いた?」 たどたどしい日本語に、雅也も目頭が熱くなった。 心配かける気など無かった。好きなレースをして、バイクに乗ることで、これほど心配させるなんて。 「俺、」 「こんどは転けずにうまく避けてね。」 美登里の口からこぼれる悲痛な声。雅也がバイクを捨てれるはず無いこと、バイクを憎む気持ちが混ざって出した答え。 雅也は肯くだけしか返事できなかった。 身体が回復し、工場に戻ったが、何故だかバイクにまたぐ気がしなかった。あの美登里の顔を見たくなかったし、恐怖が勝っている。 何度も転び、クラッシュなど日常茶飯事だったのに、今はそれから立ち直ることが出来ない。いや、乗れば楽しいのだろうが、美登里の顔、そしてクラッシュした瞬間の空の青さが、目にいたくて、乗れないのだ。 「バイク、辞めるの?」 美登里は手料理で持て成してくれる。温かい料理が並ぶ机に向かい合い、雅也は肯く。 「いいよ、マサ君がそれでいいなら。私も安心するし。でも、それで良いの? お友達は、待ってるんじゃない?」 「それでも、」 「私、バイクに楽しそうに乗るマサ君好きよ。私のことなんかお構いなしの、そんなマサ君が。」 「美登里、」 「大丈夫だよ、もう転ばないから。私が、側に居るから。ね?」 まじないは雅也をコースに戻した。もうレースはしない。ただ好きなだけ走る。 生憎とレース仕様のバイクは一般道を走れない。コース場を好きなだけ走り、そして美登里の弁当を食べて帰る。それが日課で、それがデートだった。 いくら、徹につまらないデートだと笑われても、雅也という男に、他に行ける場所はなかった。美登里もそれを望まなかったし、バイクの騒音が少しだけ快音にもなってきていたから、二人にはそこは静かな公園と同じだけの効果はあるようだった。 |
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